2011年06月06日

教師の役目


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とうもろこしがすくすく
育っています^^
左端はじゃがいもです。



以下は『ケンブリッジ英検準1級(FCE)問題集(研究社、1988年、p.25)で出会った英文です。


Let children learn to judge their own work.(中略)But in school we never give a child a chance to find out his mistakes for himself, let alone correct them. We do it all for him. We act as if we thought that he would never notice a mistake unless it was pointed out to him, or correct it unless he was made to. Soon he becomes dependent on the teacher. Let him do it himself. Let him work out, with the help of other children if he wants it, what this word says, what the answer is to that problem, whether this is a good way of saying or doing this or not.

間違えて自ら訂正することで子供は物事を身につける。
しかし教師は子供に正解を示そうとする。
その結果子供は教師に依存するようになる。


(前略)Our job should be to help the child when he tells us that he can't find the way to get the right answer. Let's end all this nonsense of grades, exams, marks. Let us throw them all out, and let the children learn what all educated persons must some day learn, how to measure their own understanding, how to know what they know or do not know.

子供が正解に至れぬ場合に教師は手を差し伸べてやればよい。
子供にはどこまでわかってどこからわからないのかの見極め方を
学ばせよ。


子供たちに自分の頭で考えられるようにしてやることこそが大切だ、
というメッセージ。

これを読み、教師の役目を再確認しています。


posted by 石崎 陽一 at 22:47 | Comment(4) | 最近読んだ本からの気づき | 更新情報をチェックする

2011年01月04日

“to rain cats and dogs”の起源について(その3)


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OEDによれば、この“to rain cats and dogs”という句の文献上の初出は1738年、スウィフトのPolite Conversationです。

I know Sir John will go, though he was sure it would rain cats and dogs.


このことは、1738年の時点で彼が土砂降りを“rain cats and dogs”と表現していたことを意味します。大雨になると猫や犬の死骸が濁流のなかを流れてゆく連想が働いていたのでしょう。


というのも、スウィフトは当時のロンドンの状況を熟知していたからです。そのことを示す傍証があります。


中野好夫『スウィフト考』(岩波新書、1969年、pp.3-15)によると、スウィフト(1667-1745)はその生涯のうち少なくとも4回、ロンドンを訪れています。


「アイルランド教会を代表して、教会税軽減の折衝に当たるため」約3年ほどをここで過ごしたと言います(『上掲書』p.9)。1710年に発表された A Description of a City Shower も彼のロンドン滞在中に書かれた作品でした。


こうした状況を踏まえると、スウィフトの頭の中で、土砂降り(to rain very hard)と犬猫(cats and dogs)とが強いつながりを示していたと言っても過言ではないと思われます。


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このように考察を進めると、“to rain cats and dogs”という表現が“to rain very hard”という意味で用いられるようになったいきさつを字義通りに説明し、その説明を、この言い方の生じた当時の状況に拠って裏付けることができます。


私は大雨のたびに思い起こされたであろうこうした連想にこの慣用句の起こりがあったと考えています。


本連載は、井上義昌『英米故事伝説辞典 増補版』(冨山房、1972年、125ページ)に紹介されている「豪雨の後には、みぞはねこや犬の死体も流れ不潔であったので、この句が生じた」とする説を修正・支持するものです。


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(追記)

本連載は、1998年にイギリス国学協会刊行の学術刊行物 ASTERISK(ISSN 1341-4186)通巻52号(Vol.VII, No.3, pp.215-222)に発表した小論の要約版です。

したがって、現在、海外のサイトには2010年4月13日付で投稿された“Raining Cats And Dogs”と題する記事が存在しますが、プライオリティは拙論にあります。

ちなみに、近刊の里中哲彦『英語の質問箱』(中公新書、2010年、pp.92-93)は上記海外サイトの記事を援用していると思われますが、記述の正確性に欠けています。


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2011年01月03日

“to rain cats and dogs”の起源について(その2)


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なぜ英語で雨が激しく降っていることを描写するのに猫と犬が引き合いに出されるようになったのでしょうか。


これには諸説ありますが、私は18世紀ロンドンの道路事情と大きなつながりがあったのではないかと考えています。


『ガリバー旅行記』で有名なジョナサン・スウィフトの風刺詩 A Description of a City Shower(1710)に次の一節があります。

Not yet, the dust had shunned th'unequal strife,
But aided by the wind, fought still for life,
And wafted with its foe by violent gust,
'Twas doubtful which was rain, and which was dust.
(ll.23-26)


翻訳は今のところ出ていませんので、拙訳をつけます。

ほこりはまだ雨との不公平な闘いを避けてはおらず
風の力を得て以前命がけで闘っており
激しい突風で雨とともに漂っていた
どちらが雨でどちらがほこりなのかはっきりしない状態だった



このように18世紀のロンドンの道路は舗装されていなかったため、風が吹けばほこりが舞い上がり、雨が降ればぬかるみとなるというようなひどい状態だったようです。


さらに悪いことには、下水道がきちんと整備されていませんでした。そこで、雨が降ると、

NNow from all parts the swelling kennels flow,
And bear their trophies with them as they go.
Filth of all hues and odours seem to tell
What street they sailed from, by their sight and smell.
They, as each torrent drives, with rapid force
From SmithField, or St.Pultre's shape their course,
And in huge confluent join at Snow Hill ridge,
Fall from the conduit prone to Holborn Bridge.
Sweepings from butchers stalls, dung, guts, and blood,
Drowned puppies, stinking sprats, all drenched in mud,
Dead cats and turnips-tops come tumbling down the flood.
(ll.53-63)

さて、至るところで水かさを増した溝から溢れ出し
戦利品を抱えたまま流れてゆく
いろんな色、臭いの汚物はその姿、臭いで
どの方面から流れてきたかわかるようだ
スミスフィールドや聖墓の方から激流が
すごい勢いでやってきて水路となり
スノーヒルの下水溝で落ち合いひとつになって
ホルボーンブリッジへと流れてゆく
肉屋のごみや糞便、内臓、それに血
溺れた子犬、腐った魚、みんな泥まみれ
死んだ猫にかぶらの葉も洪水のなかを流されてく


というような状況になるのでした(和訳は拙訳)。


すなわち、道路の真ん中を通っている市水道には蓋がされていなかったのでときとして増水して洪水のようになり、街路上や下水構内の汚物や野菜のくず、肉の切れ端、ひいては動物の死骸までもが流されて街路を走るといったわけです。


大雨と濁流、そしてそこに浮かぶ犬猫の死体。これらはイメージとして当時の人々の頭のなかで分かち難く結びついていたとしてもなんら不思議ではなさそうです。


土砂降りの豪雨がこうした連想を彼らにもたらしたと考えられないでしょうか?(その3に続く)


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(追記)

A Description of a City Shower(1710)については

N.Jain&J.Richardson (eds.), Eighteenth-Century English Poetry(Harvester Wheatsheaf, 1994, pp.138-139)

から採りました。


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2011年01月02日

“to rain cats and dogs”の起源について(その1)


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I can't leave because it's raining cats and dogs and I don't have an umbrella or raincoat!


下線部は“it's raining very hard”の意の慣用句です。陳腐な決まり文句で古風な言い方とされますが、天気予報でもよく耳にする表現です。


この表現の由来については神話や迷信、民間語源説(folk etymology)も含めて数説ありますが、聴覚に関するものがほとんどであり、

ねこは雨を降らし、犬は風を起こすという北欧の伝説に由来するという説は、最も広く行われている

と言います(井上義昌『英米故事伝説辞典 増補版』(冨山房、1972年、125ページ))。


しかし同時に『上掲書』(ibid.)には視覚に関する説も紹介されていて、ある学者が

さらに事実に即した字義どおりの解説をしたいといって、17、18世紀のイギリスでは豪雨の後には、みぞはねこや犬の死体も流れ不潔であったので、この句が生じたのであると言っている

という言及がされているものの、典拠は示されていません。


私はかねてから、視覚の具体的イメージを根拠とするこちらの説明の方がより説得力があると感じていました。


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そんな折り、かねてから読み進めている論文集 Johnson's England の中に、Dorothy George博士による次のような記載を見つけました。

When Johnson came to London in 1737, it was the London which Hogarth has drawn....(中略)The streets were filthy and ill-paved, the kennel (channel) in the middle was the natural receptable for dead cats, as in Hogarth's Morning.


さらには今回、『ガリバー旅行記』で知られるジョナサン・スウィフトの詠んだ詩に、「豪雨の後には、みぞはねこや犬の死体も流れ不潔であったので、この句が生じた」とする如上の説を修正・支持する文献的証拠を発見した次第です。(その2に続く)


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(追記)

Johnson's England については

A.S.Turberville (ed.), Johnson's England
(Oxford University Press, 1967, p.161)

から引用しました。


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2010年11月13日

ヒルティに後押しされる


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最近、思うところがあってカール・ヒルティの『幸福論』を読み直しています。


この本は大学時代から折にふれ読み返す「私の古典」の一冊ですが、読むときどきの自分の状況に合わせて常に有益な示唆を与えてくれます。


人間を知ることは、人を観察する者がまず確かな自主性を持ち、またなんらの欲望も抱かぬとき、つまり観察する者の側で一切の利己心をできるだけ捨て去るときにのみ可能である。(中略)ひとから何かを受けとるよりも、むしろひとのために何かしてやりたいと望む者だけが、恐怖をも、また過度の愛情をもいだくことなく、あるがままの人間を真に知ることができる。
『幸福論 第二部』(岩波文庫、1962年、90-91ページ)


本当に謙虚な人は、およそ自分については、善かれ悪しかれあまり話したがらず、他人が自分に構ってくれることなど少しも望まない。
『上掲書』(100ページ)


若い人が謙遜でなかったり、あるいはあまりにも自信に満ちて少しのはにかみもないような場合、その人は性格に欠陥があって、実際の役に立たない人であるか、それとも、少なくともひどく早熟で、もはやそれ以上進歩しない人である。謙遜では世の中は渡れないという、世間に広まっている偏見は、一時的成功を問題にするのならとにかく、さもなければ間違った考えである。
『上掲書』(111ページ)



他者理解と自分の在り方、見せ方につき気持ちの整理がついた気がしました。


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2010年08月11日

語源を用いた語彙学習について


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高2のある日、語彙増強の必要を痛感した私は単語集を購入しました。『ターゲット1900』(旺文社、1984年)です。


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posted by 石崎 陽一 at 02:30 | Comment(0) | 最近読んだ本からの気づき | 更新情報をチェックする
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