2018年12月29日

Communicative Language Teaching は母語の使用を禁じていない


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R. Ellis 氏は Second Language Acquision (Oxford University Press, 1997, p.79) で次のように述べていますが、近年、日本でも、文法指導が軽視されている気がします。


More recently, however, language pedagogy has emphasized the need to provide learners with real communicative experiences. Communicative Language Teaching is premised on the assumption that learners do not need to be taught grammar before they can communicate but will acquire it naturally as part of the process of learning to communicate. In some versions of Communicative Language Teaching, then, there is no place at all for the direct teaching of grammar.


また、外国語学習における、母語の使用による効果も軽視されているように思えます。

しかし、Communicative Language Teaching は母語の使用を禁じてはいません。

Jack C. Richards 氏と Theodore S. Rodgers 氏による Approaches and Methods in Language Teaching(Cambridge University Press, 1986, p.67)に

Judicious use of native language is accepted where feasible.

とあります。

また、Audio-lingual Method が

Grammatical explanation is avoided.

とするに対し、Communicative Language Teaching は

Any device which helps the learners is accepted − varying according to their age, interest, etc.Ibid.)

とします。

さらに、Communicative Language Teaching は

Translation may be used where students need or benefit from it.Ibid.)

だと述べています。


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2018年11月03日

言語習得における母語の役割


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批判的応用言語学者・久保田竜子 女史の『英語教育幻想』(ちくま新書、2018年)より備忘のため書き留めておきます。


海外の応用言語学の潮流は、言語習得における母語の役割を重んじる傾向になります。これは、実証的・理論的・理念的な知見にもとづいています。(中略)授業を英語で行えば英語の習得が促進されるという確証はありません。(p.211)

授業をどの程度、どのように英語で行うべきなのかは、最終的に学習者の属性や学習環境も含めたそれぞれの状況によると言えます。生徒が理解できないのに英語だけで授業を進めても意味はありません。(pp.211-2)

従来から批判されてきたように、英語でできるところをすべて日本語で教えてしまっては英語習得につながりません。教師の判断力と指導の質が問われているといってよいでしょう。(p.212)


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2016年09月22日

日本人にとって「英語」とは − 進むアングロ・サクソン化


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川澄哲夫編『資料日本英学史・英語教育論争史』(大修館書店、1978年)冒頭、鈴木孝夫氏による「監修者序文」(pp.A-B)から備忘のため書き留めておきます。


私は十数年前ふとしたことから、アジア諸国の多くの人々に見られる自由自在の英語あるいはフランス語の運用能力に比べて、私たち日本人の英語力が遥かに見劣りがするという事実が、実はこれらの国々がかつて長い間西欧列強の植民地であった、といういまわしい経験と密接に関係していることに気付き、今更のように愕然としたのである。

それまで私は外国語が自由に操れるということを、何か素晴らしい、文化的な香りのするロマンチックな感じでのみ受け止めていたからだ。外国語を使わないで済む、あるいは外国語を学校での学習対象としてのみ考えることができるということ自体が、我が国の恵まれた歴史環境の一側面であるなどとは考えても見なかったのである。

(中略)

一つの国、一民族の固有語であったものが、広く他民族によって用いられ、それがいつしか一種の共通語となったケースは、有史以来いく度も起こっている。そのどれもが、強大な宗教、圧倒的な軍事力、あるいは強力な経済、そして高度な文化文明といった、要するに力を背景とした強者と弱者の関係の基盤の上に成立したものであることは明白である。私たちが現在直面している英語の事実上の世界語という問題も、かつての大英帝国、そして大戦後のアメリカ合衆国の総合的な国力の産物にほかならない。

このように歴史に徹して見れば明らかなように、一つの国が外国語とどう取り組むかの問題は、ただ単に、国際的な情報伝達の手段に関する問題以上の、国家間の力学、ひいては戦略の問題ですらあるのだ。



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2016年08月17日

モノの「価値」とは?


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思想の科学研究会編『増補改訂 哲学・論理用語辞典』(三一書房、1975年、p.60)より備忘のため書き留めておきます。


モノの価値はそのモノがはじめから持っているのではなく、それに対する人間の評価作用によって生れる特別の性質である。だから評価がなければ価値はない。評価の基礎になるのは主体(人間)の「欲求」と「満足感」および「満足への期待感」である。


(追記)

『増補改訂 哲学・論理用語辞典』は東ゆみこさんの記事で知りました。重宝しています。


posted by 石崎 陽一 at 07:53 | Comment(0) | 最近読んだ本からの気づき | 更新情報をチェックする

2016年07月31日

暗記の勧め、暗記の効用


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行方昭夫『東大名誉教授と名作・モームの「大佐の奥方」を訳す 英文翻訳術』(DHC、2016年、pp.4-5)より備忘のため書き留めておきます。


そもそも翻訳のコツらしいものを私が初めて意識したのは、佐々木高政先生の『和文英訳の修行』の冒頭にある暗唱用基本文例集500題を学んだ時でした。(中略)友人と競うようにして500題を暗記しました。それ以後、研究者になってからも、この時の暗記がどんなに役だったことでしょう。人に英語を教える立場になってからも、いかに多くの学生に暗記を勧めたことでしょう。


(追記)

渡部昇一・松本道弘『英語の学び方』(ワニの NEW 新書、1998年、pp.146-7)より引いておきます。

大学でも、また、高校で教えていたときにも、佐々木高政さんの『英文構成法』というのを使ったことがあります。とにかく例文を全部暗記させた。応用問題出さないから、とにかく暗記しろ。そのかわり試験問題は、日本語をベラベラ読むから、全部英語で書けとやる。あの本の二十四のパターンを全部覚えたら、相当な力がつきます。ガクッと違うんです。便利ですよ。


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2016年03月19日

日本における外国語学習(指導)について考慮すべき要素のひとつ


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中野好夫『英文学夜ばなし』(同時代ライブラリー、1993年)より備忘のため書き留めておきます。


日本の英語教育の非効率もきわまれりという。わたしも別に否定するつもりはないが、考えても見るがよい。毎週英語の時間というのがいくらあるか、よく知らぬが(せいぜいが五、六時間程度ではないのか)、まず毎日一時間ならいい方であろう。一日二十四時間、一週七日と数えて、毎週合計百六十八時間のうち、英語に接するのは、予習復習を含めてさえ、せいぜい十時間と少々というのが関の山であろう。しかも、予習復習は必ずやるとはかぎらぬし、しかも、教室の一時間といったところで、四、五十人もいるクラスでは、居眠っていてさえときには優に過ごせるのだ。おまけに、教室外ではまず英語など使う必要はないとなれば、いったいこれでどんな効果をあげろというのだろうか。箸は二本、筆は一本、勝負は最初から決まっているといったのは、明治の文人正直正太夫こと斎藤緑雨の名警句だが、日本語は十五時間? 英語は一時間という毎日で、どう上達ができようか、というのである。(pp.150-1)


日本語の場合は、学校での国語教育がどうであれ、とにかく一日の四六時中、すべて日本語の中にひたっているはずである。能力低下は共通でも、国語と英語とでは事情がまったくちがうのだ。(p.151)



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2016年02月21日

TILT(translation and interpreting in language teaching)


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鳥飼玖美子『本物の英語力』(講談社現代新書、2016年)より備忘のため書き留めておきます。


つまり日本に暮らしていて英語を学ぶことは、「外国語」として英語を学ぶわけで、英語が主要言語である社会で日常的に使わざるを得ない「第二言語」として英語を学ぶわけではないので、必要度は低く、接触する機会も極めて少ないのです。ふだん使わないのですから、上達しないのは当たり前です。(p.16)


「コミュニカティブ・アプローチ」では、もともと母語の使用を禁止してはいないのですが、英語圏で移民や留学生を対象に教える場合は、学習者の母語が多様なことから、学んでいる外国語(英語なら英語)を教室内言語として使用することになります。モノリンガル(一言語使用)の指導法といえます。ところが最近では、母語も使ってのバイリンガル(二言語使用)指導が見直されています。英語学習でも、これまではオール英語(all in English)が効果的とされてきましたが、無理して一言語にしなくても、必要に応じて母語を使用した方が理解が早いという反省が生まれており、母語使用を積極的に認めることの重要性が指摘され始めました。

さらに進んで、海外の言語教育界では、「訳すこと」の効用が見直され、TILT(translation in language teaching/ translation and interpreting in language teaching)として「通訳翻訳を導入した外国語教育法」が盛んに研究され始めています。
(p.80)



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2015年12月28日

外国語が身につくということは、本人の体質が変わること、精神的なものがそれだけ外国人になること


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鈴木孝夫『鈴木孝夫の曼荼羅的世界 − 言語生態学への歴程』(冨士房インターナショナル、2015年、pp.314-5)にビートたけしさんと鈴木孝夫さんの対談が掲載されています。

備忘のため書き留めておきます。


たけし 言葉と文化は密接に結びついているから、もし日本人でも子どもの頃から、アメリカンスクールに通って常に英語で話したりすると、思考回路も変わってくるんでしょうね。

鈴木 もちろん変わりますよ。ですから、英語を勉強するというのは、両刃の剣だと私は言っているんです。すごく危険なことなんです。外国語を勉強することは、実は魂を取るか取られるかの真剣勝負。それを知らないで、自分の母語プラス外国語がつくと思ったら間違い。外国語が身につくということは、本人の体質が変わること、精神的なものがそれだけ外国人になることで、世界の見方が変わるわけです。外国語がうまくなればなるほど、体質が外国人に近づいていく。冬虫夏草という漢方薬があるでしょう。セミなどの昆虫の幼虫にキノコが生えて、いつの間にかキノコに栄養を吸われてしまう。それと同じで外国語がうまくなると、母語がよほど強くない限り、そちらに魂を取られてしまうのです。

たけし そちらに精神が支配されちゃうわけですね。

鈴木 支配されてしまえば、二流、三流の外国人が誕生するだけ。(中略)経済的弱者、政治的弱者は多くの言語を学ばないといけない。ヨーロッパでも、アメリカでも、強い国の人はあまり外国語ができませんよ。

たけし たしかにそうですね。

鈴木 アメリカ人は世界でいちばん強い国だから、アメリカ人は最も外国語ができません。だって、相手が英語を使ってくれるのですから。逆に、ヨーロッパでもハンガリーやフィンランドは、ロシア語も話せないと飯が食えない。ドイツ語だって、その一つの言語だけでは、商売にならないわけです。

たけし ユダヤ人が言語に強いのも、そうなんでしょうね。


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2015年07月28日

責任と応答


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井上ひさし『ふふふ』(講談社、2005年、pp.197-8)より備忘のため書き留めておきます。


「責任」という問題を考えるときは、「ある行為について、だれが、何の前で、どう応答するのか、それをよく考えなさい」と、だれもが中学校で習ったはずである。(中略)責任には次の五つがある。

@宗教的(神の前での)責任
A社会的(社会の前での)責任
B法的(法の前での)責任
C道徳的(良心の前での)責任
D自己(自己の前での)責任



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2014年09月26日

言語のもつ宿命


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A.C.ムーアハウス 著・禰津正志 訳『文字の歴史』(岩波新書、1956年、p.109)に次のような興味深い例え話が紹介されています。


古代ギリシャについてみると、ホーマーからアリストテレスまでに五、六百年しか経過していないのに、ギリシャ語はこの期間内にいちじるしく変化した。アリストテレス時代のギリシャ語だけに通じている研究家も、ひと度ホーマー時代のギリシャ語にたちむかうと、用語の点でも、音や文法形式の点でも、ただちにとまどってしまうことになる。


言語というものは、時代の推移とともに変化して、事実上、一種の外国語になってゆくものなのですね。

俗に、200年経てばひとつの「外国語」になると言われます。

このことは日本語の例について考えてみただけでも明らかですね。

古典学習では、古く遡ろうとすればするほど、それなりの苦労が伴うものだからです。



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2014年08月23日

言語学からの言語起源論追放の原因


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『月刊言語』の1986年1月号(大修館書店、pp.5-7)において、哲学者の 坂本百大 氏は、言語学からの言語起源論追放の原因を


哲学化と生物学化への恐怖とそれに対する拒絶


と見据え、次のように推測しておられます。


十八、九世紀を通じてようやく言語起源論が頂点にたっしたとき、一八六五年、突如として、フランス言語学会(Société de linguistique de Paris)は会則第二条において「言語起源論……に関する論文は一切受附けない」と宣言し、また、ダーウィンの進化論を契機にして、言語期限に関して新たな照明が当てられようとしていた一八七三年、イギリスの言語学会(Philological Society of London)会長アレキサンダー・エリスは「この種の話題は言語学プロパーの問題外のものであると確信する」と講演して、事実上、言語起源論を言語学から追放してしまった。(後略)

(中略)

言語起源の問題はすでに古代ギリシャの昔から哲学者(中略)の関心の中に見え隠れしていたらしい形跡が或る。

(中略)

(前略)十八世紀の中葉(中略)言語起源論は認識起源論の中に吸収され、再び哲学化への一途を辿ることになるのである。しかし、この傾向は当時興りつつあった、言語の実証研究の専門家達のプライドをかなり傷つけたのではなかろうか。

そこにダーウィンの進化論が現れる。進化論は、人間の言語は動物言語と連続し、また、それは発声器官や大脳の機能の連続的進化の結果であるという視点を衝撃的に提示し、ここで言語学は生物学の中に席巻されかねない趨勢となったのである。

このような一般的傾向を阻止するべく、前記のパリ、ロンドンの言語学会がこぞって、言語起源論を締め出して言語学の正統を守ろうとしたものだろう。ここで、言語学の正統とは、たとえば、エリスによれば、「現実の言語の形態、展開、変化を研究すること」とされる。




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2014年03月29日

認知(cognition)


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認知(cognition)について、池上嘉彦『〈英文法〉を考える』(ちくま学芸文庫、1995年)より備忘のため書き留めておきます。


ここで言う〈認知〉とは、最近の〈認知科学〉(cognitive science)や〈認知心理学〉で言われる意味での〈認知〉である。ごく一般的に言えば、人の〈意味〉を読みとる営みと考えればよいであろう。人間は自分の身体の外から、あるいは内からのさまざまな影響を〈刺戟〉として感じとる。しかし、ただ〈刺戟〉として感じとるというだけではなくて、それが一体自分にとってどういう意味のものであるかを読みとろうとする。(例えば、〈熱い〉とか〈痛い〉と感じるということだけではなくて、それが〈燃えているものの存在〉とか〈身体の異状〉とかいったことであると読みとられるというような場合である。)

この意味での〈認知〉は、術語としてふつう〈感覚〉(sensation)や〈知覚〉(perception)と対比される。過度に単純化した形では、次のようなことが言えるとのことである。例えば、まだ知らない言語に初めて接した時のことを想像してみよう。当初はもちろん〈意味〉は読みとれないし、〈意味〉を読みとることの前提になるようなまとまりも聞きとれない。ただ、何か音が連続して聞こえてくるという状態であろう。これは〈感覚〉の段階である。次に、いくらか慣れてくると、連続していた音の間で、多分〈意味〉と関連していると思われる(それが実際に確認できるのは、もっと後の段階ということになるが)区切りと区切りによって生じる意味あるまとまりらしいものが聞きとれるようになろう。ただし、まだそれぞれに〈意味〉を対応させるというところまでは行かない。これは〈知覚〉の段階と言えよう。そしてさらに進めば、それぞれのまとまりらしいものに〈意味〉を対応させ、全体としての〈意味〉を構成し、読みとるということが可能になるであろう。ここまで来れば、〈認知〉の段階である。(以上はもちろん過度に図式化された説明である。実際には、このように厳密に三つの段階を追って進むとは限らず、とりわけ〈知覚〉と〈認知〉は相互に深く関係し合うことが知られている。)
(pp.193-4)


ここで言う「認知」とは(中略)〈意味を読みとる〉(making sense of)という人間の営みのことである。言うまでもなく、言語は人間の認知の営みがもっとも典型的に行われる場である。そのような認識に立って、認知言語学は、言語の使われ方(つまり、「運用」)ばかりでなく、言語の今ある姿そのもの(つまり、「構造」)にも、人間の認知の営みの特性が濃く影を落としていると考える。言語は、伝統的な考え方としてしばしば言われてきたような「恣意的」(arbitrary)な性格のもの − つまり、そうなっているからそうなっているのだとしか説明できないようなもの − でなく、「認知」という人間の営みに現れる特徴的な偏向性と関連させてその成り立ち、働き方が十分説明できるというのがその前提である。(pp.292-3)


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2013年07月27日

和語と漢字熟語は互いの表現できない部分を補いつつ存在している、という視点


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日本語には、例えば、「はっきり」という和語に対して、

「明瞭」「明快」「明晰」「明白」「歴然」「自明」などの漢字熟語があります。

これは


和語の意味限定の緩さを漢字熟語が補っている


のだと岩田麻里 編『和語から引ける漢字熟語辞典』(東京堂出版、2007年、p.(1))は指摘します。


漢字が組み合わさると、語の意味を細かく分析・説明することができるようになる


からですね。(『上掲書』p.(2))

そこで、


厳密に的確に表現することが必要な場合には、漢字熟語を用いるとよい。ぼかして言いたいとき、あいまいな表現にしておきたいときは和語を用いればよい。語というものは、微妙なりとも確固とした違いを持って、個々の座を占めているのだから、その違いに敏感になって使い分けたいものである。


という指南(『上掲書』p.(3))につながるわけですが、

文章をものする際、また、翻訳をする際、心がけたい視点だと感じた次第です。


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2013年05月06日

慣用句の種類


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長井氏晸 著・荻原恭平 改訂『新訂新版 英語ニューハンドブック』(研究社、1967年、p.374)より備忘のため書き留めておきます。


英語の慣用句とは、常識的に、英語に特有な言いまわしと定義できるが、そうすると見方によっては英語全体が慣用句となってしまう。そこで日本語に直訳しては意味の通じないものを慣用句と考えることにしよう。(後略)

(前略)それぞれの句を組み立てる単語の意味の集まりだけでは意味が通らなくて、別の意味を生みだすものを仮りに「化合句」と名づけるとすれば、単語の意味を集めるだけで、どうにか句の意味の通じる「混合句」と呼べるものもある。(中略)英文解釈上「化合句」ほどまちがいを誘うことにはならないが、できるだけ多くの「混合句」を知っていることも英文を読むためには必要である。



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2013年05月04日

日本人英語教員の役割と責任


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鳥飼久美子『戦後史の中の英語と私』(みすず書房、2013年、p.205)より備忘のため書き留めておきます。


長く続けた「百万人の英語」を担当していて私が常に抱いていた信条は、日本で生まれ育っても英語は話せるようになる、ということだった。当時は外国語教育理論も第二言語習得理論も、その存在さえ知らなかったので、単純に「私ができたのだから、みんなもできる」と信じていたに過ぎない。しかし、その後、さまざまな理論を学び、自身でも研究して、その信念が変わったかといえば、本質的には変わっていない。教師になってからは、日本人英語教員の役割は大きい、と主張し続けている。教員自身が英語を学習して日本人学習者は英語のどこがどのように難しいか熟知しているのだから、ネイティブ教師任せでは日本人教師として責任放棄だ、と考えている。


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2012年11月01日

young at heart


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いま英語Tの授業では、パブロ・カザルス(1876-1973)が自ら語った話を読んでいます。

スペインのチェロ奏者であり指揮者であった彼は、90歳を越えてなお生き生きとした感性を失いませんでした。


My work is my life. I cannot think of one without the other.


そして


Each day I am reborn. Each day I must begin again.


こうした一節に触れたとき、私は篠原眞(1931- )さんのことを思い出しました。

現在は主にオランダで暮らし、傘寿を越えられた今もなお、音楽家として活躍されている方ですが、

本校のPTA会報誌において以下のような問答を以前目にしていたのですね。


篠原氏は


お年を重ねられても、こういう曲を作ってみたいという気持ちが沸々と湧いてくるのでしょうか?


と問われて曰く、


僕の考えでは、創るっている仕事は、僕自身の本質に関係していると思うんですよ。本質の部分を生きていかないと、先は続かない。他の仕事をいくらやっても、やっぱり何か充分な生存感というのが得られない。ところが、創るということをやっていると、そこに自分の生きがいを感じるんですよ。何が何でもとにかくそれを続けていこうと思います。創るということは新しいものを創るということです。やったことをまた繰り返していたら、それはだめで、今までなかったものの中から新しいものを発見していくっていうことです。


まさに

Age is a relative matter.

だなぁとつくづく実感させられたことでした。

いつまでも young at heart でいたいものです。


(追記)

明日は進学指導研究協議会「指名制による授業研究」の一環として、都立他校の先生が授業見学に来られます。普段どおりを見ていただければと考えています。


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2012年10月01日

真摯に向き合うことの大切さ


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「わかればわかるほどわからなくなる」ことについて、窪薗晴夫『数字とことばの不思議な話』(岩波ジュニア新書、2011年、p.209)より引きます。


一つ謎を解くと、新たな疑問がいくつも出てくる。このドアの向こうには何があるのだろうと思って、夢中になってそのドアを開けてみると、そこにはまた別のドアがいくつもある。そのようにして疑問は尽きません。知の世界とはそういうものなのです。

ただ、部屋の中にある新しいドアの存在に気がつく人は多くないかもしれません。事実を暗記することだけに満足していると、このような知のドアは見えないと思います。一つのことを理解できたら、次に「どうしてだろう」「なぜだろう」と思う探求心が大切です。知識を得ることに満足せず、子どものような好奇心を持ち続けることが大切なのです。

知識が増えれば増えるほど、疑問も増えてきます。しかし、疑問が増えるということはけっして嫌なことではありません。「わからない」というのは嫌だと思う人も多いかもしれませんが、疑問を持つということは、「わからないことがわかっている」ということです。(後略)

その意味では、ノーベル賞をとるような賢人たちは私たちの何倍も知識が多いだけでなく、私たちの何倍もわからないことを知っているのだろうと思います。少し逆説的な言い方かもしれませんが、人間の賢さはわからないことの量で決まるのではないでしょうか。



人間の賢さはわからないことの量で決まる。

そう言えば、探求心、好奇心に関連して思い出したことがあります。

ノーベル化学賞を受賞した白川英樹さんの話です。

中学時代、白川さんが物理の授業で

「雲はなぜ落ちてこないのですか」

と尋ねたところ、担当の先生は

「雲をつかむような質問だね」

と洒落を言って、まともに答えてくれず失望したと語っておられたとのこと。

佐藤文隆『雲はなぜ落ちてこないのか?』(岩波書店、2005年)の冒頭(p.2)で紹介されている話です。

身につまされる話ですが、そのとき教師が

「すぐには答えられないが一緒に考えてみよう」

そう答えていたら白川さんは化学者ではなく物理学者になっていたかもしれません。

学習者として、また、教授者として、疑問に真摯に向き合う姿勢を大切にして(大切に育てて)いきたいと改めて思った次第です。


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2012年08月25日

文法の定着について考える


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今からおよそ50年前、すでに、小川芳男先生は『これからの英語教育』(国土社、1965年)において、次のように提言されておられます。


文法は単なる理論を教えても無意味であって、文法の具体的な実践としての作文がなくては文法は自分のものにならない。作文を書くときは文法の力をかりて書くと共に、文法を習ったときには必ずその実践として作文を書いてみることである。(p.146)


以前「文法のゴールは作文に」という記事にも書いたことですが、
石崎は

英語はもとより、独語と古英語、羅語の文法の学習を作文で行い、
作文が文法の定着に有益であることを身を以て実感しています。

そして、例文(お気に入りの言い回し)を徹底的に暗記することで力をつけました。

したがいまして、小川先生のおっしゃる


結局英語の構文を覚えることが、すなわち文法だという考え方を持つことである。(p.162)

もっとわれわれの日常生活に使えるような、身近な例文を持ってこなくてはならぬ。そういう例文を絶えず暗記することによってその文を覚える。文を覚えることは同時に文法を消化することである。そういった生きた日常に使える例文を与えることが、文法を教える場合に必要である。(p.162)


という意見に同意します。

ですから、『ユメブン1』(アルク、2012年)の執筆に際しては、如上の提案・意見を具体化するものを強くイメージした次第です。


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『ユメブン1』で扱われている文法事項は精選され、学習項目数自体は絞られているのですが、

それぞれの学習項目ごとに豊富な例文が配されています。

網羅性よりも使用頻度を重視し、重要項目を反復練習させたいという思いから、

同じポイントを例文を変えて繰り返し学習できるようになっているわけです。

『ユメブン1』では穴埋めから入り、語形変化、整序、誤文訂正、部分作文、ディクテーション(音声の書取)というプロセスを経てゴールの作文に無理なくつながっていきます。

この過程でルールとして頭で知っているレベルから瞬時に正しく引き出して使いこなせる技術として身につけることができるよう設計されています。

さらに、『ユメブン』シリーズの例文は、具体的なイメージを思い浮かべられるような例文に仕上がっていますので、

如上のステップを踏んでいくことにより、文法の定着と平行して単語力も増強できる仕組みになっているのです。

ですから、『ユメブン1』には全20ユニットで約 2,000 例文が収録されていますから、

ひと通り学習を済ませた学習者の方には、

「裏メニュー」として

UNIT 1 から UNIT 20 までの全例文を日本語から英語に再生できるまで仕上げる

ことを提案しています。

『ユメブン』を骨の髄までしゃぶり尽くし、「骨太」の基礎力を養っていただきたいと思います(^-^)


学習者の側としては、技術としての英語はいくら説明をきいても力はつかないということである。そして教授者の側としては、十分説明すれば、自分で納得がゆくから生徒も納得したと錯覚を起こし易いということである。これと同じことは学習者の側にもいえることである。詳しい説明をきくとわかったような気がするのである。(p.214)


小川先生のこのご指摘もまた、けだし、至言です。


英文法は発信と理解のためのツール。英語で正しく読み、書き、話し、聞くための技術です。

技術を頭で理解しているだけでは、その目的を果たすことはできませんよね。

水泳の技術などを思い浮かべていただければ直ちに了解されることと思います。

ですから、その学習で大切なのは「使って覚える」ことです。

実際に使えば知識が活性化し、印象が強く忘れにくくなるのです。


快晴の西東京から石崎がお送りしました。

それでは、また。


(追記)

若林俊輔・伊藤克敏・森住衛・北市陽一 共編『英語教育指導ライブラリーC 学校英語再考−文法・語法編−』(三省堂、1984年、pp.4-5)より備忘のため書き留めておきます。

何も本格的に比較文化、英語史、対照言語学の論を展開する必要はないでしょうが、ある程度学習者の知的好奇心を満足させるような説明をしてやることが、ことばの仕組みやそれを話す人々の考え方に興味を持たせるきっかけになるのではないでしょうか。従って学習文法はある程度説明文法的な要素を持つ必要があると思われます。英語の規則をただ頭に詰め込むことによって英語をうまく操る機械人間をつくることが英語教育の目標であるかのように考えられています。そういったいわば英語機械人間は、機械的な試験問題は上手に解くことができるでしょうが、真に生きたことばとしての英語を味わうことはできないでしょう。学ぶ対象がどういう性質のものかをしっかり認識した上で、それを言語活動を通して習慣化するという、いわゆる認知−習慣理論(cognitive-habit theory)こそ正しい学習過程でありましょう。


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2012年08月01日

“everything of something”よりも“something of everything”を


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『新英語教育講座 第一巻』(研究社、1956年)に所収の市河三喜「英語教育総説」(p.62)より備忘のため書き留めておきます。(漢字は新字体に改めてあります。)


大多数の人々即ち何千何万という人達は、生きた英語を身につけて、或いは教養に或いは実用に役立ち得るよう修行すればよいのである。それがためには“everything of something”(何かについてあらゆること)よりも“something of everything”(あらゆることについて少しばかり)を心得て置くことが肝心である。実際、英語の先生は何でも知っていなければならないと思うことがよくある。

(中略)

こういう風に一方に全人的知識教養が要求せられると共に、他方に於て英語教師は英語教師として単に英語の表面的知識材能ばかりでなく、英語の背景をなす諸般の項目についても一通り通じておかなければならない、というのであるから今後の英語の先生に対する期待は非常に大きいわけである。



(追記)

田中菊雄先生は『現代読書法』(講談社学術文庫、1987年、p.121)において

自分の専門については一切を知り、しかも他のあらゆる分野の人間活動についても常に関心をもって、多少を知ることを心掛けることが大切である。

To know everything of something and something of everything.
(ある事のすべてを、すべての事について多少を知る)

ということが大切である。

と述べておられます。



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2012年07月31日

verse の訳語について


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中島文雄『英語:文法と鑑賞』(開文社、1951年、p.185)より備忘のため書き留めておきます。


日本語では verse を韻文と訳しているが、この訳語を用いると blank verse は無韻の韻文ということになり名辞矛盾を犯す。Verse は必ずしも rime することを要しないが一定の rhythm をもつから、韻文というよりむしろ律文である。


posted by 石崎 陽一 at 17:32 | Comment(0) | 最近読んだ本からの気づき | 更新情報をチェックする
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