2016年09月22日

日本人にとって「英語」とは − 進むアングロ・サクソン化


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川澄哲夫編『資料日本英学史・英語教育論争史』(大修館書店、1978年)冒頭、鈴木孝夫氏による「監修者序文」(pp.A-B)から備忘のため書き留めておきます。


私は十数年前ふとしたことから、アジア諸国の多くの人々に見られる自由自在の英語あるいはフランス語の運用能力に比べて、私たち日本人の英語力が遥かに見劣りがするという事実が、実はこれらの国々がかつて長い間西欧列強の植民地であった、といういまわしい経験と密接に関係していることに気付き、今更のように愕然としたのである。

それまで私は外国語が自由に操れるということを、何か素晴らしい、文化的な香りのするロマンチックな感じでのみ受け止めていたからだ。外国語を使わないで済む、あるいは外国語を学校での学習対象としてのみ考えることができるということ自体が、我が国の恵まれた歴史環境の一側面であるなどとは考えても見なかったのである。

(中略)

一つの国、一民族の固有語であったものが、広く他民族によって用いられ、それがいつしか一種の共通語となったケースは、有史以来いく度も起こっている。そのどれもが、強大な宗教、圧倒的な軍事力、あるいは強力な経済、そして高度な文化文明といった、要するに力を背景とした強者と弱者の関係の基盤の上に成立したものであることは明白である。私たちが現在直面している英語の事実上の世界語という問題も、かつての大英帝国、そして大戦後のアメリカ合衆国の総合的な国力の産物にほかならない。

このように歴史に徹して見れば明らかなように、一つの国が外国語とどう取り組むかの問題は、ただ単に、国際的な情報伝達の手段に関する問題以上の、国家間の力学、ひいては戦略の問題ですらあるのだ。



posted by 石崎 陽一 at 14:03 | Comment(0) | 最近読んだ本からの気づき | 更新情報をチェックする
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