2016年08月06日

語学は要するに特殊な知識の集積である


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『関口存男生誕100周年記念著作集 ドイツ語学篇 10 中級講話 趣味のドイツ語』(三修社、1994年、p.40)で、関口存男は次のように喝破しています。


もっと何か重要な話もあろうに、何を好んでこんなゴミゴミした特殊な事を取り上げたのか?と思う人もあるでしょうが、語学というものはそんなものではありません。語学は要するに特殊な知識の集積で、個々の特殊な知識を除いた一般知識なんてものは、学力が進むにつれて、その馬鹿馬鹿しさはだんだんとわかって来ます。学力の最後の段階は、むしろ「個々の特殊な知識を如何に多く、且つ刻明に、且つ自信を以て蓄えているか」ということによって優劣が決するのだ、ということを銘記して勉強しましょう。

人生のありとあらゆる隅々、否、時とすると、ありもせずあらゆりもせぬ隅々まで、一応全部楊子の先でつつき廻すこと−これを称して語学と云うのです。



別の観点から、田島松二『中英語の統語法と文体』(南雲堂、2016年)は次のように提案しています。


すぐれた英語の研究は非英語国から多数生まれている。とりわけ、歴史的な研究では英米をはるかに圧倒している。然らば、われわれ日本人も、日本人であること、日本で教育を受けたことを活かした研究ができるのではないか、いや、やるべきではないのか。(p.12)

テキストを分析的に読む、いや読まざるを得ないという日本人の強み(あるいは弱み)を活かして、一つひとつの語句の解釈やシンタックスなどにこだわりながら、語学的に厳密にテキストを読むという訓詁学的な仕事である。(中略)欧米人には何でもないところで、われわれはつまずき、難渋することが多い。言語、歴史、文化等に裏打ちされた「読む力」が違うのだから当然のことであろう。われわれにとって厄介な、あるいは気になる語句、語法は、彼らから見れば、さしずめトリヴィア(trivia)とでも呼ぶべきものかもしれない。しかし、このトリヴィアの研究をもっと行ったらどうかということを提唱したいのである。日本人だからこそ気づく点も多々あろうし、重要な指摘につながらないとも限らないではないか。(p.13)


posted by 石崎 陽一 at 18:57 | Comment(0) | 教師論・学習指導・進路指導 | 更新情報をチェックする
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