2015年10月04日

耳は寛容、目は不寛容


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B・H・チェムバレン 著/吉阪俊藏 譯『鼠はまだ生きてゐる』(岩波新書、1939年、p.14)より備忘のため書き留めておきます。


耳はつき合ひ易い寛容な器官であつて、非常に顯著な發音のなまりを聞いても驚かない。眼は、これに反して、文學に於けるすべての新奇さに對して敏感である。綴字法(オルトグラフ)の改良の困難さは此處に横たはつて居る。蓋し讀み書きを知る人々 − 卽ち今日ではすべての人々 − は傅統的な綴字法で考へるからである。例へば私は oiseau 〔鳥〕 といふ單語から o、i、s、e、a、u といふ六字の集合を受取り、これを用ひて書く習慣になつてゐる。決して耳に聞こえる oi 及び zo といふ二つの音ではない。



(追記1)

発言の際、間違いを恐れて萎縮し、やりとりがしにくくなる。

そんなのは本末転倒ですから、私は、生徒に、「話す時には文法をそんなには気にする必要はないけれど、書く時には気にしようね」と伝えています。

(もちろん、間違いっぱなしでいいはずはなく、発話の際中に誤ったことを認識し、後日の修正に活かそうとする姿勢は必要です。)

会話で許される間違いも、文章では許されません。

特に、教え子たちがやがて属するであろうアカデミックな世界では、書く文のレベルで中身への信頼性が失われてしまいかねないからです。

指導者側は、「文法をそんなには気にする必要はない」と口にする際、話す時と書く時とをしっかり区別して正確に伝える必要があると思います。

「耳は寛容、目は不寛容」という言葉は発音と綴字の関係にとどまらず適用されると感じている次第です。


(追記2)

上記の引用中「文學」とあるのは恐らく「文字」の誤訳でしょう。



posted by 石崎 陽一 at 09:42 | Comment(0) | 発音・アクセント・文字(の指導) | 更新情報をチェックする
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