2015年09月28日

不毛な二項対立 解消の方向性 − 英文法の場合


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高梨健吉『英語の先生、昔と今 − その情熱の先駆者たち』(日本図書ライブ、1985年、p.119)は


英語研究と英語学習は別物である。英語教育はザインの世界ではなく、ゾルレンの世界であることを忘れてはなるまい。


と主張しています。


大塚高信『英文法論考 − 批判と實踐』(研究社)は、昭和13年の初版以来、この双方を巧みに融合することを提唱し、文法の扱いについて次のように述べています。

(なお、以下の摘記は昭和27年の第7版からのものです。)


School grammar といふのは一言で言へば ‘ars grammatica’(中略)であつて、どこまでも art であり science ではない。Art としての grammar が價値がないといふのは science としての grammar を標準にして考へるから(後略)(p.1)


art としての文法とは、或る實踐的目的を持つたものである。その目的の一つには外國語として學習する場合に便宜を與へるということがある。吾々が英語を習ふ場合、恰も小兒が母國語を覺えるときと同様に箇々の言ひ方を片端から覺えていくのも一つの方法であるが、grammar によつて稍々一般的に説明されたものを習ふと、言語習得としては不自然でも多大の勞力を節減し得るのである。これが外国人向けの school grammar(後略)(pp.2-3)


實踐的文法は科學的文法と沒交渉である必要は少しもない。寧ろ科學的文法を基礎として、之に適當なる modification を施したものが最も適切なものであろう。(p.4)


つねづね、私は、日本の英語教育論は、どうも不毛な二項対立に終始することが多いのを残念に感じています。

私自身は、すべての resources は、目の前の生徒の英語力に資するのであれば教師たるもの利用しない方が変ではないかな、と考えています。

目の前の生徒に応じてそうした案配を決めて動いていくことのできる「柔軟さ」をもった教師でありたいです。

大塚高信先生による如上の記述を目にしたとき、我が意を得たりと思わず膝を打った次第です。



公立高校は定期異動があります。

今後、定年を迎えるまで、(これまでと同様に)さまざまなタイプの学校で、さまざまなタイプの生徒に出会うでしょう。

さまざまな分野で自分自身の幅を広げる必要を感じています。


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Mind your step, Michael! There are plenty of people looking at your job enviously!

Martin H. Manser, A Dictionary of Contemporary Idioms(s.v. step)



posted by 石崎 陽一 at 13:15 | Comment(0) | 文法の学習・指導 | 更新情報をチェックする
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