2013年08月10日

文法の効用


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村田聖明『[続]ひとりぼっちの英語人生』(日本英語教育協会、1984年)より備忘のため書き留めておきます。


話しことばも、書きことばも、それが現代の人間のものである限り、「生きた」ことばである。両者の相違は、表現の媒体が音声であるか、文字であるかにすぎない。(p.20)


いかなる国語でも、それが文明国民の国語である限り、二つの媒体によって表現される。すなわち、一つは文字であり、他の一つは音声である。つなり、言語というものは、通常、「書きことば」と「話しことば」という、二つの要素から成り立っているのであり、文明国では、このいずれもが、同様に重要なのである。(p.195)


話しことばを理解し、話しことばによって自己を表現することに必要な、その国語についての習熟度は、書きことばの場合に比べて、はるかに高いものである(p.20)


同じ思想を表現するのに、仮に、Aは五時間かかって五百語の文章をものにするのに対し、Bは即座に同様の文章を作ることができるとした場合、後者の語学力は、前者に比べ、はるかに優れていることはいうまでもない。(p.21)


「実用」とは、人間生活の中における、言語の機能を理解した上での、英語を用いる能力を指すのである。つまり、「実用英語」とは、人間間の広い意味での通信の手段としての英語である。

当然のことながら、それは、話し言葉としてのみの英語でもなければ、読みかつ書くだけの英語でもない。
(p.25)


われわれが英語を駆使することは、それ自体が目的ではなく、手段にすぎないのである。それは、ことばというものがそもそも、手段であるからだ。(p.25)


いうまでもなく、文法は外国語を習得するのに最も効率的な方法である。にもかかわらず、「文法にとらわれずにどんどんしゃべるようにしないから、英語がうまくならないのだ」という人があるとすれば、これはまことに理解に苦しむ。文法が大切なことでは、話しことばも書きことばも同様である。しかし、現実には、話しことばにおいて、不完全な文でも「間に合ってしまう」場合が多い。これが右に述べたような妄説を生む理由であるかもしれない。(p.95)


英文を作る時の規範としての文法、いわゆる規範文法の意味も正しく理解されなくてはならない。

「今の英米人は文法通りにしゃべってくれない」ということばを耳にすることがある。文法とは要するに、ある言語が用いられている現状の中から抽出した公式や慣用の集大成である。したがって、外国人(非英語国人)がそれに従って文を作って、英語国人に理解できないはずがない。しかし、ある時点で英語国人が用いる英語が、外国人の知識の中にある文法とずれていることは当然あり得る。これは少しも不思議ではない。それは一つには、文法家たちが、変わりつつある生きた言語についていけないからである。
(pp.97-8)


したがって、英語学習者にとっての文法は、専門家によって絶えず改訂されていかねばならない理屈である。もしこれが可能であれば、「文法」と現実のずれは最小限に止まるだろう。(p.98)


ひとつ注意しなければならないことは、言語の変化の一つの形である誤用に対する態度である。いうまでもなく、誤用は最初は単なる誤用であっても、普遍化すれば誤用でなくなる−あるいはそう認めざるを得なくなる。しかし外国人は誤用については慎重に臨むべきで、英語国の専門家の意見が一致してこれを認めた後に追随するので十分である。(p.98)


ところが、H先生にしても、N先生にしても、当然のことながら、英語を話したり、聞いたりすることは不得手だったらしく、N先生が、「NHKのカレント・トピックスなどは、聞いても全然わかりませんよ」と、あたり前のような口ぶりで言われたのを、今でも明瞭に覚えている。

こういう諸先生のもとで英語を五年間勉強してアメリカに渡った私には、アメリカ人の話すことばが、自分が五年間、苦労して学んだはずの英語だとは思えないくらい、違ったものに聞こえた。

しかし、ここで大事なことを述べたいのだが、このような中学の英語が、実は大変に意味があった、ということなのだ。
(p.183)


文法知識が十分にあれば、あとは公式をできるだけ多くの実際の状況に応用する練習をすればよいわけである。

語彙も同様で、初歩的な基礎の上に、着実に増やしていけばよい。その時にも大切なのは、品詞による意味の分類と、新語に遭遇した時の、その用法の文法的理解である。何についても大切なのは文法なのだ。
(p.184)


このような基礎を身につけた生徒は、将来必要に応じて英語の集中教育を与えれば、確実に実力を増大させることができる。(p.184)


書きことばであれ、話しことばであれ、基本的に緊要なのは正確な構文力であるが、これを最も効果的に開発する方法が文法的理解である。

(前略)文法の知識があって初めて応用が可能なのである。ということは、一つの構文の基本様式を学べば、無限の応用が可能である。さらに、文法的知識が不十分では、正確な読解も臨み得ない。
(p.204)


高校教師はそもそも、基礎技術を与えるのがその任務であるから、自らが高度の専門技術を駆使する必要はない。いうならば、自動車学校の教官である。どうすれば、なぜ車が走るのかを教えるのが教官のつとめであって、教え子の中からは、習った基礎知識や技術をもとにして、運転の専門家になる人が出てくるわけである。

高校の英語教師は、そういう意味での責任を果たすように心がけてもらいたいと思う。
(pp.185-6)


posted by 石崎 陽一 at 22:53 | Comment(0) | 印象に残ったこと | 更新情報をチェックする
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