2013年04月27日

私も受けたい授業


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東京学芸大学「学芸国語教育研究」(第30号、平成24年12月)より、備忘のため書き留めておきます。

英語教育への示唆を含んでいると考えます。

なお、下記には宮沢賢治「永訣の朝」の授業風景が続くのですが、私も受けたい授業です。


一方、彼らは、自分たちが高校時代に受けてきた授業をかなり強固に内在化している。典型的なのが古典の授業に関する事例で、例えば「現代語訳をあらかじめ配布した上で授業を展開する」といった指導例を紹介すると、「訳を配ることには反対」「配ると授業でやることがなくなる」「授業のポイントを教えてしまうことになるのではないか」といった議論が噴出する。 つまり、彼ら自身が「訳をつくる」授業を受けてきたわけであり、「訳をつくる」ことが古典の授業だと思い込んでいるのである。

ちなみに、「そういう授業が楽しかったのか?」と質問すると、多くの諸君が「退屈だった」 とか「古典は好きではなかった」と答える。つまり、国語科の教員を目指そうという自分たちが退屈だと思うことを、後輩の生徒たちにも取り組ませようというのである。「高校時代の国語は嫌いでした。でも、大学で文学を学び、教員を目指したいと思いました」という学生でさえ(というか「だからこそ」なのかも知れないが)、同じ轍を踏もうとするから不思議…というか、内在化された授業の呪縛から抜け出して、新しいスタイルの自分なりの授業を構想することは、難しいことなのであろう。(塾や予備校でのアルバイト経験が、よりこのような意識 を強固にする方向に働くのかも知れない)。

(中略)

先ずは講義中心の授業ではなく、生徒の発言・議論を中心とした授業の展開を意識することがスタート地点となるだろう。つまり、現代文であろうが古典であろうが、発問・応答を骨格とする、生徒とのコミュニケーションを中心に据えた授業を組み立てる必要があり、そのためには、しっかりとした教材研究と、その教材を生かす指導過程の研究をすることが要求されるのである。

そして、そのような授業の中で、聞く力・話す力(私は「話すこと・聞くこと」ではなく、「聞くこと・話すこと」の順だろうと考える)といったコミュニケーション能力の基礎を少しずつ養い、発言すること、議論することの面白さ、つまり、教室でみんなで学習することの楽しさを体験させながら、継続的な語彙指導(漢字の書き取りなど)とからめて、「伝える力」 を涵養することが求められているのである。

同時に、すべての指導の根底には、学ぶ側の「意欲(関心・態度)」を喚起することが必要とされることも忘れてはならない。意欲があれば、積極的に意見を発表したり議論したりするだろうし、ノートを取ったり要約をまとめたりするはずなのである。いかに意欲を喚起するか、意欲を喚起できる教材を用意できるか、古い教材であっても意欲を喚起する新たな切り口を見つけられるか、意欲を喚起する授業の展開とはどのようなものか、を、目の前の生徒の実態を踏まえて工夫することが重要なポイントであり、そこに、どのような学校、どのような教科であれ、教員の力量が求められているといえるのではなかろうか。



(追記)

全文はこちらをクリック。


posted by 石崎 陽一 at 09:52 | Comment(0) | 興味をもったこと | 更新情報をチェックする
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