2012年11月19日

座右の一節


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田中菊雄『英語研究者のために』(講談社学術文庫、1992年)より備忘のため書き留めておきます。


「教えるのは学ぶの半ば」というけれども、確かにそれ以上である。教えてみてはじめて本物になる−これが外国語習得の場合においては特にそうである。(後略)

教壇を試験場と考えて十分の準備と自信とをもって臨むということほど大切なことはない。またその準備もその日暮らしの準備ではいけない。同じ一つのことを教えるのでも、十の力で教えるのと百千の力で教えるのとでは非常なへだたりがある。容易な教材でも決して軽んじてはならない。文法上およびその他すべて教育学上のいわゆる「形式方面」の準備はもとより、「実質方面」すなわち内容方面の研究を怠ってはならない。時にはただ一課を教えるために一冊の書物を読破するだけの努力を払わなければならない。(後略)
(p.179)


一にも二にも三にも予習である。これによってこそ教師は学ぶのである。しかし予習にもピンからキリまである。一夜づけの予習ではだめである。往々にして教師は抜萃の一課を教えるのに一冊の原作を読破する覚悟をもたなければならない。「人一度これをよくすれば我は十度す」という心掛けが必要であると思う。(pp.226-7)


英語教師は常に視野を広くして世界の動きに着目し、言語事象としてこの生きている言語の推移にアップ・ツー・デイトたらんことを心掛けなければならない。また外国語の尊重がややもすれば学生に無批判な外国文物崇拝の念を作り出す恐れのあることを深く戒めて、これを overestimate することもなく、underestimate することもなく、科学的態度を持ち、かつ常に「日本人」たる自覚をもって生徒を導かなければならないことは当然である。

と同時に、また一面では、自分の専門に深い興味を持ち、世紀の騒乱を超越して不断の研究を続けて行かなければならない。
(p.180)


posted by 石崎 陽一 at 23:08 | Comment(0) | 思い出話 | 更新情報をチェックする
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