2012年11月04日

授業内活動としての翻訳


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菅原克也『英語と日本語のあいだ』(講談社現代新書、2011年)より備忘のため書き留めておきます。


生徒たちが英文の意味を理解しているかどうかを確かめるには、生徒たちの母語(日本語)に訳させてみるのが、もっとも確実である。英語の運用能力がまだじゅうぶんでない生徒たちに、英文の意味を英語で説明せよと言っても、どだいムリな話である。教室で日本語を用いる道を、あえて封じてしまうことの窮屈さは、こんなところにもあらわれる。(pp.67-8)


英語を「読む」際の読み方は、いろいろである。一字一句ゆるがせにせず精読することもあれば、段落ごとにおおまかな意味がわかればよいとする読み方もある。いわゆる速読といわれる読み方だが、速読ができるようになるには、どこかで精読の経験を積んでおく必要がある。ひとつひとつの文について、何もわからないような状態では、速読など望むべくもない。また、多読ということも必要になる。自分自身の英語力に見合った速度と読み方で、とにかくたくさん読むのである。ただし、わからないと感じる英語があまりに多ければ、多読の意欲はそがれてしまう。ここでも、精読の経験が基礎になる。(pp.85-6)


英語を読むにあたって、日本語にいちいち訳す必要などない、英語は英語としてそのまま読めばよい、という主張がある。これは、まったく正しい議論である。英語は英語として読めばよい。日本語に訳さなければ理解できない、ということはけっしてないし、英語で読んで、そのまま理解できるようになることこそ、望ましい。

問題は、どのようにしてそのレベルまで達するか、ということである。
(pp.68-9)


高校生になってちょうど半年が過ぎたばかりの公立高校1年生に対して、何ら説明を加えることなく、例えば


A day doesn't pass in my life in which I fail to look at the miracle of nature.


という英文を


I look at the miracle of nature each day in my life.


という英文に言い換えて理解させることは、いったい何を理解させたことになるのだろうかと思います。


多少中身のある英語の文を読もうとする際、どうしてもその意味を日本語で知りたい、と思うことがあるはずである。英語で読んでもよくわからないので、日本語でどういう意味なのか知りたいと思うのは、日本人英語学習者には当然の心理である。英語のような、日本語とはかなり異質な外国語を学ぼうとする学習者が、母語を通じての理解を求めるのは、ごく自然なことだと言ってよい。(p.69)


精読の訓練は、教室という場でしっかりと経験しておかなくてはならない。辞書や文法書を引きながら、英語の読み方をみずから学ぶことはできるが、わからないところについて確認し、質問できる機会はどうしても必要になる。それに、自分ひとりで読んでいて見過ごしているところ、思わぬ間違いをしているところなど、教室でしか発見しえないこともある。そこは訳すまでもない、と思っていた英語の文に、思いも寄らぬ意味が隠されていた、というようなこともある。そうしたことを教えてくれるのが、教室という場である。(p.86)


訳読を通じて、意味はわかったと感じるなら、わかったという意味を確認しつつ、何度でも音読すべきである。(中略)内容を理解したうえで音読するなら、意味のまとまりを考えながら、読むことができる。(中略)そのようにして何度も同じ文章を読んでいると、表現のひとつひとつが、文章全体のなかで、どのような意味、機能を担っているかが、あらためて理解できる。日本語の訳を離れ、それこそ直読直解するかたちで、英語の意味が頭に入ってくるようになる。(p.87)


訳読の目的は、英語のテキストが語学的に正確に理解できているかを確かめることにある。構文の把握、語義の選択等に誤りがないか、テキスト全体の文意がとれているかどうかを見ることにある。(中略)ただし、訳読の過程において、英語(翻訳元・起点)と日本語(翻訳先・終点)のあいだの対応を考えることを、忘れてはならない。英語と日本語において対応するもの、同等のものを見つけ出す力は、じつは英語のテキストの理解力とも関わっている。

英語のテキストと日本語のテキストのあいだの対応を、みずから考え、工夫してゆくことは、英語という言葉についての認識を深めることにもつながる。英語と日本語のあいだを往復するなかで、日本語の表現に対応する英語表現が見いだされてゆく。同時に、英語と日本語のあいだで対応関係の見いだしにくいものが、げんに存在することを意識するようになる。それは、英語という言葉の問題にとどまらない、英語をとりまく文化の領域に目を開くことにつながるであろう。

訳読は、あくまでも英語学習の手段にすぎない。だが、手段をおろそかにすれば、目的の達成も困難になりかねない。
(p.184)


訳すとおかしな日本語になる。意味の不明なところがいくらでも出てくる。どうしても訳せないところがある。仕方がないから、辞書を引いては何度も読み返す。そんな地道な作業をつづけた末、どうもしっくりとこない、日本語の感覚では腑に落ちないところが残る。あせる。いらだつ。あきらめかける。

それは、自分自身の思考能力に砥石をかけるような経験である。母語としての日本語の論理、発想とはかけ離れた、思いもかけないものとの出会いであり、衝突である。(中略)英語を日本語に訳してみること、訳読をするという作業は、自分自身に対して思考訓練を施すことである。

教室での訳読は、そうした思考訓練がどのようなものであり、どのようなものであるべきかを、体験する場を提供する。(中略)何に注意し、どのような手続きをとればよいのか。教えることができるのは、そこまでである。
(pp.198-9)


posted by 石崎 陽一 at 17:41 | Comment(3) | 日々の授業 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
会社でたまに英文契約書を読む会社員です。

英文契約書は文の構造が複雑なものがあります。

自分達に不利益な条項が無いか、一字一句、精読します。

直読直解で速読する力も必要だと思いますし、最近では、社会で必要なのは和訳ではなく、英語によるコミュニケーション力だなどと言われますが、精読して訳す事も、大事だなと思っています。

Posted by at 2012年11月05日 21:04
訳読を通じて、意味はわかったと感じるなら、わかったという意味を確認しつつ、何度でも音読すべきである。(中略)内容を理解したうえで音読するなら、意味のまとまりを考えながら、読むことができる。(中略)そのようにして何度も同じ文章を読んでいると、表現のひとつひとつが、文章全体のなかで、どのような意味、機能を担っているかが、あらためて理解できる。日本語の訳を離れ、それこそ直読直解するかたちで、英語の意味が頭に入ってくるようになる。(p.87)

この部分に特に同意します。私もこのような学習が役に立ったと実感としてあります。
それこそ「内容一致問題」のように4択の中から消去法で選ぶことが本当に理解しているかを測定するのに十分、とはいえないわけで。自分の力で日本語で表現するということで理解度を測ったり、日本語の表現力の向上に寄与すると思います。

ただ、「訳読に値する文章」かどうかも考える必要があるのかなと。訳せばそのまま内容がわかってしまう文はえてして訳が荒くても内容は把握できてしまいますし、そうなると精読する意味あるのかと生徒に思われてしまいそうです。適材適所といいますか。
今日Oprah WinfreyのRosa Parks追悼挨拶を生徒と読みましたが、日本語に訳すのもそこそこ難しく、訳した後に「つまりどういうこと?」と歴史的な背景などを一緒に考えることができました。
上で会社員様が書かれていることは本当に大事だなと思います。生徒にはさまざまな読み方を身につけさせる、そしてそれにあった訓練を提供していくことが私達の仕事だなと感じました。
長文失礼しました。
Posted by matsuzaki at 2012年11月06日 18:49
>会社員さま。

はじめまして。コメントをありがとうございます。契約書などの理解もコミュニケーションの重要な側面のひとつですよね。仰るように、精読のスキルは極めて実用性の高い技能だと考えております。また、お願いします。

>matsuzakiさま。

「生徒にはさまざまな読み方を身につけさせる、そしてそれにあった訓練を提供していくことが私達の仕事だなと感じました」という一節に共感します。こちらにもバランス感覚というか、視野の広さ、幅の広さが必要ですね。
Posted by 石崎 陽一 at 2012年11月06日 20:23
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