2011年09月19日

嬉しい記事


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少し時間ができたのでスクラップを整理していたら次の記事が目にとまりました。

言語を学び、教える者として無視できない点があったからですね。


日本植民地時代に教育を受け“台湾日本語世代”として、台湾に「正しく美しい日本語を残そう」と、会員五十人ほどのグループ活動を続けている。

そもそも美しい日本語にこだわるきっかけとなったのは、われわれの次の世代、戦後に日本に留学した台湾人の日本語があまりにお粗末だからだ。彼らが台湾の大学で日本語を教えていると聞き、この由々しき訛伝(かでん)を正さなくては日本の文化が誤って吸収される。



この文章は産経新聞1995年8月4日付朝刊に陳絢暉氏(台湾万国専利商標事務所顧問(当時))がなされた投書です。

この投書は表題の通り「現代日本語の乱れを憂える」のが趣旨ではありますが、ここには外国語教育の意義とも言える内容が示されています。

そう、この一節で示唆されていることは、言語は単なるコミュニケーションの手段ではないということです。

外国語教育は、言語を単なるコミュニケーションの道具としてのみとらえてはいけない。

私たちは言語を媒介として、その言語を話す国民の歴史、文化、国民性、そして究極的には人間そのものを学ぶわけですから。

そしてまた、外国(語)を鏡とし自国(語)を見つめるのも外国語教育の役目のひとつ。

そう私は常々考えていますので心に響いたのでしょう。

しかし切り抜いたことをすっかり忘れてた('_')


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陳氏はさらに続けます。


(中略)言葉を粗末に扱ってはいけない。美しく正当な日本語を熟知したうえでの“遊び”であってほしい。ピカソもマチスも徹底したデッサンで鍛えられた前衛画家である。草書にしても基礎としてのかい書の裏打ちがなければ話にならない。

日本の女性作家の本はあまり読まれないが、台湾旅行中に飛行機事故で亡くなられた向田邦子さんは別だ。彼女の日本語はわれわれの世代には非常に懐かしい日本語として感服している。台湾で日本語を学ぶ者の一人として「本家よ、しっかりしてくれ」といいたい。



日本、そして日本語を愛してくださっていることが伝わり、嬉しくなった。


前衛的なるものは古典的なるものを修めたものにのみ許される。


うむ。


コミュニケーションもたしかに大事ですが、

陳氏が日本の日本語を憂えているように、私たちもまた本家たる英国や米国の英語を憂うことができるくらいに、格調高い英語を保存したいものです。

そんなことを考えた夜でした。


(追記1)

碩学・関口存男氏は『中級講話 趣味のドイツ語』(三修社、1985年、第15版)で語学に関する哲学を熱弁されています。

池内紀『ことばの哲学 関口存男のこと』(青土社、2010年、p.34)によると、彼は


アテネ・フランセの夜学でフランス語を勉強した。二年後には教師に任じられ、フランス語でもってフランス語を教えていた。ラテン語を習ったときも同様で、すぐさまラテン語教授をたのまれた。英語も中国語もよくできた


といい、実用語学に長けていたのですが、語學苦心談(pp.341-343)では次のように書いています。


実用語學的行き方は、勿論中學あたりから盛に採用しなければなりません。けれども、それは直ぐ缶詰のレッテルが讀めたり西洋人と話ができたりする事が理想であつてはならない、やはり結局は文化語學、すなわち主として「書物が讀める」ことが最後の理想でなければならない。(中略)だいいち、語彙や表現から云っても、実用語學ほど貧弱なものはありません。それに反して、書物に出てくる外國語が、これが本當の英語、本當の獨エ語です。(話される言語が本當の言語だという説は、もう古いと云って好いでしょう)従って、この方は、そう簡単には支配できません。長年の勉強を要します。しかしそれはむしろ當然でしょう。(中略)殊に強調して申し上げたいのは、実際語學というものは、既に書物が充分讀めるようになつてさえ居れば、まことにわけもないものだという此の一點です。私は、自分の経験からして、断固として此の點を主張したいと思います。


この記述に出会ったとき、私の経験からも、我が意を得たりと思わず膝を打ちました。


(追記2)

関口存男の語学学習に関して、細谷行輝ほか『冠詞の思想』(2016年、三修社、pp.331-6)に簡単な紹介記事があります。なお、同書(pp.)には関口独特の意味形態用語の解説集(簡易版)が収録され、初心者の理解の手引きに役立ちます。



posted by 石崎 陽一 at 23:17 | Comment(2) | 最近読んだ本からの気づき | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
先生のこうした引き出しの多さにはいつも驚嘆いたします。


『やはり結局は文化語學、すなわち主として「書物が讀める」ことが最後の理想でなければならない』


人間の幅を広げる意味でも、この境地に生徒を導きたいところですね。
Posted by matsuzaki at 2011年09月22日 19:28
matsuzakiさま。毎度ありがとうございます^^ ええ、私は教養と実用は相反するものではないと思っています。
Posted by 石崎 陽一 at 2011年09月24日 21:38
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