2011年01月12日

関口存男『中級講話 趣味のドイツ語』(三修社、1985年、第15版)


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『中級講話 趣味のドイツ語』というタイトルは語学の参考書にはいささか不向きと思われるかもしれません。著者自身もそう感じたのか、「はしがき」でこの「趣味」という語の由来を述べています。


本書は「中級」の学習者を対象に編まれたとのことですが、そもそも「中級」というのがよくわかりません。関口氏の言葉を借りれば、

「中級」を定義するとすれば、だいたい斯ういう風なことになるでしょう:『中級とは、少しはやつたがまだなんにもわかつていない程度のことである』。

少しやると高級みたいな氣がして来る……なんにもわかつていないと氣がつくとすぐ初級と謙遜する……この二方面を合して考えると只今の定義になるわけで、わけのわからないヌエみたいな定義ですが、ものがヌエだから定義もヌエになるのはやむを得ますまい。

(p.1)

ということらしいですが、この中級者を教えるのが一番やりにくいと氏は言っています。それは、小学校の3年生から高校の卒業生までを一同に並べて講義をするようなものだからであるようです。

ここに彼一流の哲学が出てくるのですが、

けれども大所高所に立って事を考えてみるならば、小學生と中學生と高校生を一室に集めて授業するということは、そんなに非常に無茶苦茶なことでしょうか? ドイツ語をやつた人と五年やつた人とを一堂に集めて講習するということは、そんなに頗る甚だ非常にとても絶對に不可能な暴擧でしょうか?

私はこう思います:人をヘえるというのは、人を「刺戟」することである、と。大してヘえるところがなくてもよい、「刺戟」さえすればよいのだ、−これが私の信念です。刺戟さえすれば大抵の人は後は自分でやつて行きます。後を自分でやつて行かないような人なら、ヘえたつてどうせやつて行きはしないでしょう。

ドイツ語を半年やつた人と十年やつた人とを一堂に集めて、これにドイツ語を「ヘえる」というのは、それは頭つからインチキと断定してよろしい。これにドイツ語を「刺戟する」というのは充分意味をなします。「趣味のドイツ語」というチャキな名は、實はこう云う意味なのです。

(p.2)


さて内容はというと

●文法の部
●讀本の部
●歐米思想縱横記
●英語と獨エ語
●事項別常用句集
●語學苦心談

という構成になっており、間違えそうな箇所、恐らく誰もが疑問を抱くような箇所、他の参考書ではわざと避けているような箇所を独自の切り口でスパッと説明しています。

例えば、文法の部でいうと

●Butterは「ブッテル」か、それとも「ブッター」か?
●ゲーテかギョーテか
●性の覚え方
●遊離的二格

など、ちょうど初級入門書が終わり、ちょっとはわかったが何か壁が越えられないでいる「中級者」にとってまさにかゆいところに手が届くような内容ばかりです。

したがって、本書は体系的な独文法書ではありません。よって、ドイツ語を全く知らない人がこれを読むと面食らってしまうかもしれません。

しかし、関口氏自身がつとに語るように、本書を読めば「刺激」を与えられること間違いありません。

「よし、気合いを入れてドイツ語をやろう」という気にさせてくれる希有な本なのです。

中でもとりわけ面白いのが歐米思想縱横記と語學苦心談です。

前者を読むと、対談形式で書かれていて読みやすいのも手伝って、欧米の、それもカント、ヘーゲル、ショーペンハウエルといったドイツ思想の中心のそのまた核心部分をさっと理解したような気になります。

そして、語學苦心談では碩学・関口存男の人となりと語学に関する哲学がひしひしと伝わってきます。池内紀『ことばの哲学 関口存男のこと』(青土社、2010年、p.34)によると、彼は

アテネ・フランセの夜学でフランス語を勉強した。二年後には教師に任じられ、フランス語でもってフランス語を教えていた。ラテン語を習ったときも同様で、すぐさまラテン語教授をたのまれた。英語も中国語もよくできた

といい、実用語学に長けていたのですが、語學苦心談では次のように書いています。

実用語學的行き方は、勿論中學あたりから盛に採用しなければなりません。けれども、それは直ぐ缶詰のレッテルが讀めたり西洋人と話ができたりする事が理想であつてはならない、やはり結局は文化語學、すなわち主として「書物が讀める」ことが最後の理想でなければならない。(中略)だいいち、語彙や表現から云っても、実用語學ほど貧弱なものはありません。それに反して、書物に出てくる外國語が、これが本當の英語、本當の獨エ語です。(話される言語が本當の言語だという説は、もう古いと云って好いでしょう)従って、この方は、そう簡単には支配できません。長年の勉強を要します。しかしそれはむしろ當然でしょう。(中略)殊に強調して申し上げたいのは、実際語學というものは、既に書物が充分讀めるようになつてさえ居れば、まことにわけもないものだという此の一點です。私は、自分の経験からして、断固として此の點を主張したいと思います。
(pp.341-343)

この人にしてこの言葉あり、を感じさせる言葉です。関口存男はドイツ語のみならず、フランス語もラテン語も英語も中国語もその習得に「『長い文章を其の儘暗記する』という方法、みずから称して『ペラペラ式メトーデ』が絶大な効果を発揮した」と『上掲書』(ibid.)にあるからです。

恐らくこうした氏の火を噴くような情熱のこもった言葉に感動しない人は、本書を読んでも共感するところはないでしょう。ましてや刺激を受けて発憤し、勉学に励むなどということはあり得ない。

つまり、刺激を受ける側にもある種の前提がいるわけで、それがなければ「猫に小判」ということだと思います。

関口存男はドイツ語の教授にその人生を捧げ、学習者の「青春を蹂躙することのないような例文」(『新ドイツ語文法教程』(三省堂、1932年)の「本書の指導精神および用法」より)を努めて集めました。それは、彼の上のような語学学習にまつわる哲学から発するものなのでしょう。

先の引用で何かピンと来るものがある方は本書をお読みになることをお薦めします。きっとよい刺激を受け、語学の勉強のもつ真の意味を理解されることと思います。


posted by 石崎 陽一 at 00:17 | Comment(4) | 本の紹介 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
関口氏がJの先輩ですが、私がドイツ語をJで始めたころは、彼の本は、Jの教師からは推薦されていなかったような記憶があります。私の感間違いでしょうか。今読んでみても、駄洒落に釣られてしまいがちですね。
Posted by wy1 at 2011年06月25日 00:07
wy1さま。はじめまして。コメント深謝です。私は専門ではなく2010年8月29日付および2011年1月11日付のエントリーに記した事情でドイツ語を独習した者です。関口氏の本が効果的という話を英文科の恩師から聞き、試した経緯なのです。wy1さまはどのように学ばれたのでしょうか? 教えていただければ幸いです^^
Posted by 石崎 陽一 at 2011年06月25日 10:24
英文科の恩師とは渡辺氏のことと思いますが、石崎さんは上智の英文科卒ですか? 私はドイツ語をだ上智で学び独文科を何とか卒業した者です。当時教養課程で第一外国語をドイツ語として履修しました。週六日間毎日二時限ドイツ語の授業があり、そのうち四時限はドイツ人の修道者でした。従って、独習では全くありませんが、関口氏の本を学生時代には使ったことは無く、卒業後に”新独文法教程”と独作文の本を購入しただけです。氏は上智の哲学科出ですね。
Posted by wy1 at 2013年04月04日 16:30
wy1さま。ご返信ありがとうございます。現任校では2年生で第2外国語を履修することができ、ドイツ人の先生から直接学ぶことができますので、2年生の担任をするこの機会に教わる予定でおります。私は渡部先生の最後の弟子にあたる者です。
Posted by 石崎 陽一 at 2013年04月05日 19:34
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